2019-07-18 (Thu)
17:29
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山辺町の白鷹山の麓に、1600年に直江兼続軍25000人と最上義光軍500人が戦って4時間ほどで落城した畑谷城祉が有るんですが、その山頂(館山549m)の石碑に刻まれた文言が思い出せず、気になって確認のため行ってきました。
畑谷地区の入口にある案内板

畑谷城址の登山口には「ごへい宿」が有って、その前が駐車場になっており10台は可能で、案内板なども整備されています。

ここには、案内人の待機場所になっている他、お土産なんかも売っている様でした。
ただ、土日・休日ばかりでしょうかね・・・・

畑谷城の大きな配置図があって、大変参考になりましたよ~。
登りは左側。下りは東に降りてきました。

駐車場から50mほど登ってくると左側に登山道が現れます。
ちょっと振り返ると、畑谷集落越しに白鷹山や西黒森を眺めることができます。
帰りは、東口から降りてきました。

登山道は幅が広く、ちょっときつめの坂を七曲りで登って行きます。

山頂までは10分ほどで到着です。
結構な広さで、石碑が3本ほどあり、その中に私が目指す歌碑も有りました。

これが、私の好きな歌碑の書かれた石碑です。
「旅人よ ゆきて伝えよ 最上のために 戦いたおれし者を」
25000名の上杉軍の総攻撃に立ち向かった最上軍の500名の戦士。
最上義光の撤退命令にもかかわらず、あえて最上のために玉砕を選んだ江口光清以下の500名の戦士達。
善戦虚しく倒れ去った有志達の気持ちを考え、読めば読むほど胸が苦しくなってきます。

帰りは東門方向へ降りていきました。

畑谷城には何度か訪れたことが有りますが、こちらから降りるのは初めて。
登山道は刈り払いがなされ、やはり七曲りで降りていきますが、道幅は狭く整備されてまだ日が浅い感じがしました。

畑谷城が落城した後、上杉軍は東進し長谷堂城を攻め立てましたが、関ヶ原合戦での西軍敗戦の報を受け撤退。
その戦いで、我が先祖は新田という山の奥深く落人として隠れ住んだのでした。
そして400年後、その新田は廃村になってしまったのです・・・・
畑谷地区の入口にある案内板

畑谷城址の登山口には「ごへい宿」が有って、その前が駐車場になっており10台は可能で、案内板なども整備されています。

ここには、案内人の待機場所になっている他、お土産なんかも売っている様でした。
ただ、土日・休日ばかりでしょうかね・・・・

畑谷城の大きな配置図があって、大変参考になりましたよ~。
登りは左側。下りは東に降りてきました。

駐車場から50mほど登ってくると左側に登山道が現れます。
ちょっと振り返ると、畑谷集落越しに白鷹山や西黒森を眺めることができます。
帰りは、東口から降りてきました。

登山道は幅が広く、ちょっときつめの坂を七曲りで登って行きます。

山頂までは10分ほどで到着です。
結構な広さで、石碑が3本ほどあり、その中に私が目指す歌碑も有りました。

これが、私の好きな歌碑の書かれた石碑です。
「旅人よ ゆきて伝えよ 最上のために 戦いたおれし者を」
25000名の上杉軍の総攻撃に立ち向かった最上軍の500名の戦士。
最上義光の撤退命令にもかかわらず、あえて最上のために玉砕を選んだ江口光清以下の500名の戦士達。
善戦虚しく倒れ去った有志達の気持ちを考え、読めば読むほど胸が苦しくなってきます。

帰りは東門方向へ降りていきました。

畑谷城には何度か訪れたことが有りますが、こちらから降りるのは初めて。
登山道は刈り払いがなされ、やはり七曲りで降りていきますが、道幅は狭く整備されてまだ日が浅い感じがしました。

畑谷城が落城した後、上杉軍は東進し長谷堂城を攻め立てましたが、関ヶ原合戦での西軍敗戦の報を受け撤退。
その戦いで、我が先祖は新田という山の奥深く落人として隠れ住んだのでした。
そして400年後、その新田は廃村になってしまったのです・・・・
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Last Modified : 2019-07-19
FC2に移行されたのですね♩
登録しましたので、また遊びに来ますね!!
今後とも山形の色々な山、紹介してください。
楽しみにしております。